光復節
私たちが終戦記念日と呼ぶ8月15日を、韓国では光復節(クァンボクチョル)と呼ばれているということを日本語学校時代に知りました。日本の支配からの解放…視点を変えれば同じ日が全く違って見えるのだと知ったのでした。詳しくはウィキペディアで。
私が日韓議員連盟に入っている関係でしょうか、ご案内をいただいていたので
本日午前中、私は朝鮮学校の問題で県の私学振興課と話した後の参加した。
頭の中を 朝鮮半島の図がぐるぐるまわりながら参加したのでした。
国会議員地方議員含めていろいろな党派の挨拶を聞くと、意外に過去の反省をしっかり語っておられたり、今、日韓関係は非常に厳しい、と厳しさを生み出している当の党が言っていたり、うなづいたり頭をひねったりいろいろ感想を持ちながら聞いていました。すると共産党はふいに私にまわってくることになりました。唐突だったのでとまどいながらもなんとかお話資した内容は以下です。
「ヨロブンアンニョンハセヨ(みなさん、こんにちは)
私は日本語学校で10年間韓国や中国などアジアの学生さんと交流したことがあります。民際外交ということばがあるように、国と国の関係がどうであってもこうした民間の交流が大事だと思っています。さて、日本では終戦記念日という日を、韓国ではクァンボクチョルという言い方をする、そのことの意味をしっかり考えなければならないと思います。私たち日本共産党は政党として過去の侵略戦争に反対した歴史を持っています。今、平和を守るということで国会ではいろいろ論議されていますが、日本にとって経済的にも大切なことは近隣のアジア諸国との関係を強固にすることです。日本共産党は東南アジア諸国連合に例をとり、北東アジアにも平和協力構想をうちたてようという考えをもっています。徹底した対話こそが真の平和を招くと考えています。その意味でもこういう場が広がることが本当の国交正常化につながっていくと思います。今日のこの日をともにお祝いしましょう」
というようなことを話しました。今文字にしてみるともっときっちり、「武力に頼るやり方ではなく」、「仮想敵国をつくるやりかたではなく」とか「安保法制」という言葉をしっかりいれればよかったとか、悔やむところです。まあ、韓国の方から「いいお話でした」といってもらい、党の仲間からもあの会場では今まで県議が来れてなかったからなかなかああいう話は聞けなかった、と言っていただきました。
写真の旗の両脇には我々は歴史認識をなんとか、とか、国交回復をなんとか、という垂れ幕があり、かつ彼らの韓国語のスピーチの中では慰安婦問題という言葉もありました。韓国語もっと勉強したいと思ったものです。
今日の話でうれしかったのは日韓国交50年ということで、50年前は日韓両国の行き来は年間1万人。今では500万人になっているということ。民際外交に加え、政治の場でも正常な関係が築けるよう努力していきたいと思いました。
コメント
日本語学校での教師生活が話しの内容につながったことでしょう。
北東アジア平和構想やや徹底した話し合いを盛り込んだお話し、唐突に振られた話とは思えない内容で、素晴らしかったですね。
10月2日から韓国訪問があります。民際交流です。公開は朴 慶南さんと一緒で、先方では韓国で活躍しています戸田 郁子さんの案内で、仁川租界などを見てきます。良い交流ができることを期待しています。
日韓議員連盟の一員でいらっしゃること、光復節へのご参加、たいへんご苦労さまです。即席のスピーチもなかなかで、草の根の日韓交流に貴重な貢献をされました。やはり、日本語教師として中国や韓国の学生と接してこられたキャリアが奈々子さんの基盤になっているのだ、と思ったことでした。
ぼくも諸活動の傍ら中国語と韓国語を勉強してはいますが、加齢に伴う頭の回転の減速とか、この酷暑などでパソコンに向かえる時間が断続的で、初級レベルを繰り返しているのが実情です。でも、頭のトレーニングぐらいにと思いながらつづけているわけです。
なお、Facebookも活用がいまいちで、いただいたメールへの返信も時間的にずれて失礼していることをご容赦ください。
中村様
朴慶南さんと?それはそれは楽しみですね!
私は旧ブログで5年前の仁川訪問を書いたことがあります。
ドクト(竹島)は僕らのものだという絵葉書が地下鉄の壁一面にはられており、竹島の真逆にある土地で子どもたちにこんなことを描かせるなんて、課の国もまた教育が政治に翻弄されていると思った次第です。
美味しいものを楽しんでいらしてください。お話、お待ちしております。
Hamajima様
幼い時に京都でも朝鮮人いじめがあったこと、私の母はヒューマニストなので近くの在日のおばさんにビビンパのつくり方を習ったりして(笑)、私の中には差別意識は皆無でしたが、そういう風潮をなんとも困ったものだと思っていました。そのころから私には責任というか負い目というか、なんか芽生えましたね。
私も学生時代の第二外国語は中国語でした。近隣の言語はいいですね。歴史込みで覚えることになりますし。我們慢慢学習吧!
在日韓国人・朝鮮人の問題については、私の地元の新聞社が主催した講演会における野中広務氏の話が印象深かったです。
野中氏は、朝鮮半島からの強制連行の事実や強制連行されてきた人たちが日常的に虐待を受けていた様子を目の当たりにしてきたことを自らの経験として語り、日本がそれについて誠意ある対応をすることの重要性を説いていました。そして、彼が国会議員在職中に出された河野談話や村山談話は日本の誠意ある対応の一つであり、それらを覆すようなことは絶対にあってはならないとも説かれていました。
先日、安倍クンが「将来の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません~」と言ってました。ただ、それを望むなら、「うるせえな。大日本帝国は朝鮮半島の人たちに良いことしてやったのに、何で謝る必要あるんだよっ!~」というような彼の感覚・姿勢は棄てないとダメかと。それができないというのであれば、その言葉も単に無反省を示すものとしてしか受け取られないでしょう。
戦後70年談話を読み上げる安倍クンの様子を見ながら、“未来志向”とはどういうことなのかを彼は野中氏からきちっと学ぶべきだと思いました。“未来志向”といったプラスの響きのする言葉を使えばごまかせると甘く考えているふしが彼にはありますから。
私は8月16日(日)に桜木町で映画「日本のいちばん長い日」を鑑賞しました。これを見た率直な感想は一度始めた戦争の終結がいかに大変かということ。また陸軍首脳は本土決戦を叫んでいたが彼らに国民の行く末など念頭に無かったということ。単に己の組織を保守するためだけでは無かったのか。またいわゆる青年将校をあのレベルまで洗脳した教育に怖さを感じました(映画の中では教育の内容は描いていませんでしたが)。
また特に陸軍(軍人に権力を与えすぎた結果ですが)を中心とした「国家」としての責任所在の曖昧さは70年経過しても変わっていないと感じるのは私だけでしょうか?
歴史にifは無いけれどもせめて1945年2月のいわゆる近衞上奏文を昭和天皇が支持していたならば沖縄戦、広島及び長崎への原爆投下は避けられたと思います。
戦後70年。今般の映画でもあらためて戦争の悲惨さを考えさせられました。「戦争」の犠牲者は常に庶民です。「歴史」を正しく把握することが今ほど肝要な時はないと考えます。
そうですか。韓国では「光復節」ですね。
因みに私も大学時代の第二外国語は「中国語」でした。今覚えているのは「我是日本人」「我姓鈴木」レベル(笑)。私事で恐縮ですが中国語のサークルを挫折して「労働法」に目覚めたという懐かしい時代でした。「労働法」学んで今があります。「中国語」学んでいたら今頃は・・・・・・・・。Ifは無いですね(笑)。
なめねこさん
何を隠そう、私が育った京都市右京区の町内のお隣には野中広務氏の生前墓があります。在日の人が多い地域でした。。
私の中で贖罪の意識が強いのは子ども自体の関西の差別的な環境ではぐくまれた?ものかもしれません。
鈴木さん
中国語が好きで学んでいたのに、あれ楽勝だからね、と単位とりやすさだけを語った先輩にむっとしたものです。単位はとりやすかったけれど、発音は難しく、ヒアリングに至ってはとっても難しかったですよね。
それで労働法に結実してよかったですね。
私は中国語も韓国語も半端なままです(笑)