港北区役所から上末吉の生協まで平和行進?
港北区役所前で集会を開いてからスタート。
区役所の地域支援課長からご挨拶をいただき、私も実行委員長としてご挨拶をしました。
今年はおふたりの被爆者のお話を聞き、しかもそのお二人が広島二中の同級生だと伺いました。
弁護士の森先生も久しぶりに参加されました。
出発集会で冒頭、ご挨拶された広島被爆者の亀井さん(港北区平和行進副事務局長)の言葉があまりにも胸に響いたので載せさせていただきます。
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平和行進挨拶
14歳の時、広島で被爆した亀井と申します。広島二中の3年生だった私たちは
「国の大事に殉ずるはわれら学徒の面目ぞ」と歌いながら軍需工場で働いていました。後輩の1年生は、あの日爆心地近くに建物疎開作業に出かけ300名余がなくなりました。ほぼ全滅です。この悲劇は「いしぶみ」と題する本になり、朗読劇としても放送されました。
1980年には全国に37万人いた被爆者も、年々減少し今では15万人になりました。平均年齢は82歳です。港北区にも現在被爆者が120人、2世が245人暮らしています。
被爆者の団体である日本被団協は、2016年4月、核兵器廃絶をめざしてヒバクシャ国際署名を始めました。2017年7月、国連で核兵器禁止条約が採択されました。被爆者は大いに喜び、勇気づけられました。
しかし、ゴールはまだ先です。この条約が発効するのは50カ国が批准してから90日後です。現在、70カ国が調印していますが、批准した国は23か国です。来年のNPT再検討会議までには何とか50カ国の批准を得て条約を発効させたいと署名に取り組んでいます。日本政府にも条約への参加を求めています。
先月までに国連に届けた署名は昨年届けたものを含めて累計941万筆です。もっともっと広げなくてはなりません。みなさんのさらなるお力添えをお願いします。
満州事変の年に生まれ、敗戦まで神国日本の軍国少年として育った私にとって、戦争放棄の日本国憲法は宝物です。特に原爆の惨禍のうえに生まれた9条は被爆者にとって誇りであり、生きる支えです。
平和行進の中で、核兵器なくせ、核兵器禁止条約の早期発効、9条改憲許すなの声を広げましょう。
2019年5月11日
亀井賢伍
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そしてお昼休憩の上末吉生協さんにはバナナやおやつをいただいたり、お弁当を販売していただいたりいつものように応援してくださいました。
松本ただしさんは亀井さんの同級生。一家10人を一度に失った悲劇を講談調で実に迫真のお話を語ってくださいました。自分だけが生き残った。苦しむ人を助けることもできずにいた、とご自分を責めるあまり、証言を求められても4年前まで語れずにいたとおっしゃいます。
学徒動員で建物疎開の作業に駆り出されていて爆心地近くで被爆、亡くなった弟さんのお話は最後に弟さんの背中を見送った今生の別れ、亡くなる前は「お兄ちゃんが助けに来る」と言っていたと後に聞いてご自分を責め続けている話…非常に胸に刺さる話でした。
中でも衝撃だったのが、アメリカが原爆の被験者の数を増やすために、投下前に数日間、何もしない戦闘機を飛ばし、戦闘機に慣れさせて防空壕に避難しないように市民を油断させ、原爆の「効果」を測ったという話でした。
そして風船を木佐木さんにバトンパス。