母を送る
ーーーー息詰めて沈黙を聴く冬電話----
12月は議会日程も詰まっていて母の入院もあって、ネット句会への投句はとても無理と嘆く私に、そういうときこそいい句が生まれる。と先生に励まされ作りました。(自分で季語を作ってしまってそこはご指導いただきましたが)入院先の母の生存を毎日疑いながら電話し、一時は意味不明なことをいう母に愕然としたり、なんとか危機を脱して自宅に戻ったのに…。
クリスマスイブの朝に心肺停止となりました。
祖母との別れにやってきた娘と息子に「(イブだというのに)恋人がいないのは、ばあばのお別れで大津に来ることを見越してのことだったのね。」「そうなんだよ~(笑)」的な会話を交わしながら家族が大津で久々に同じ時を過ごし、遺されたもろもろを整理しています。どの引き出しを開けても、モノが整っており、記録が緻密で、権利関係も整理されているのを見るにつけ、改めて母への敬意が湧きます。胸を衝かれたものたちをご紹介します。
・トイレに行くにも休まないと歩けなくなっていたし、洗面所でも立っておられず自宅の各所に置かれた椅子。・母の命をつないだ酸素のチューブ・私のブログが更新されたら、分かるようになっているメモ。「新しいものを書いたなと思ってみるんや」と話していたっけ。・私の選挙にカンパをくださった方々の名簿・冷凍庫のサツマイモの天ぷら。「生協さんに注文したんや」4日前の電話で語っていたっけ。ほとんど食べられなくなった母が、積極的に注文したと知ってうれしかったのに。これだね、と娘と泣きながら食べました。
・そして9年前に亡くなった父と母が若いころ取り交わした書面の一節。父から「最後に天国に行く時も2人一緒なら申し分ありませんが、天国への道はとても荒れているそうなので私が先に行って道普請をしておきます。」その通りになりました。また、母からは「死んで生まれ変わったらまた父さんの嫁はんになったげるよ」というわけで遺影は二人一緒のものを選びました。
病院から家に母を連れて帰り、家から送る家族葬のつもりではありましたが、自宅の部屋で母が一日過ごした際、途切れることなくいろいろな方がお越しくださいました。母を目標にしていたとか、母に励まされたとか、滋賀県中に絵手紙をひろげてくれはったんやで、大きな灯が消えた、などの言葉をいただき、息子は「人の最期にその人の人生が見えるっていうけど、ほんとだなと思った」と。
見送ってくださる方々に手紙を用意しました。遠方の方へはなかなかお知らせできないのでブログを読んでくださるこの場を借りてご挨拶します。
ご会葬いただきましたみなさまへ
本日は母、志田まり子の見送りにお越しいただき、ありがとうございます。コロナ禍のもと、時間が限られますので、書面でのご挨拶となることをお許しください。
1936(昭和11)年、まり子は京都西陣の機織職人の家に生まれました。戦時中の建物疎開も経験し、細かった身体で子だくさんの貧しい家族の支え手となりました。闇米の買いだしで、上着の裏に細い袋を何本も縫い付け、一本一本に米を入れてもらって太って帰り、周りの大人にからかわれて悔しい思いをした話をよくしておりました。厳格な父親で、母が本を読んでいると、女は勉強しなくていいと叱られ、それでいて「お前が男だったらな」といわれていたそうです。中学をでてすぐ就職しました。東洋電波という会社だったといいます。父親譲りの器用さを持ち、精密機械の組み立てで偉いさんの前で見本の技を披露したのだと嬉しそうに話していました。
父と出会い、京都市右京区新田町の市営住宅で私と弟を育てました。お正月には家族で花札も恒例でしたが、家族旅行の途中では漢字クイズもやったりしていて、子育ての中で自分も成長できるといっていました。学ぶことに貪欲な母でした。 また、お隣の町内が朝鮮人部落といわれる町でしたが、差別的な目で見る人がいる中で、母はそこのお友達にビビンパの作り方を教えてもらって感謝していたということがありました。権威にこびたり、偏見に染まったりすることのない人だったと思います。
私の6歳のお誕生日に日本共産党に入党したようです。苦難の時代を生きてきただけに、国民の苦難軽減の党に入って、人が大切にされる世の中の実現を目指して頑張ってきました。
40年前、大津市のここ日吉台に引っ越し、祖母を引き取りました。町内のみなさんや党や、新婦人のみなさんとともに私たち家族は生き生きと暮らすことができました。坂本民主診療所の立ち上げに当たって頑張っていた父と母を見ていましたが、その診療所に大変なお世話になることとなりました。母は祖母を見送り、父の介護に通い、その中でリウマチに重ねて肺の難病を患うことになりました。9年前に父を送ってからは、弟も私も遠方にいるため、本当の一人暮らしになりましたが、いつも周りの方に助けられていました。特に今年に入ってからは急速に病状が悪化し、在宅酸素療法となり、外を歩くことも困難になりました。お茶碗を洗うにも休み休みでした。入院中も足が萎えないようにリハビリをしていました。「食欲はないけれど必死で食べている。食べな帰れへんからな」とも言っていました。
自宅で暮らすことにこだわり、介護体制も整えていただくことになりました。入院前には中華鍋も新調し、生き抜く気が満々でした。でも力尽きました。
本当によく頑張ったと思います。母が母らしく生きることができたのも支え続けてくださったみなさんのおかげです。心から感謝を申し上げます。
最後に、「お母さんの人生はずっと上り調子や」と言っていた母ではありますが、この度のコロナ危機を経てあきらかになったように、この国が、ここまで弱者に厳しい、正義が踏みにじられ、国民をないがしろにするような劣化をみせるようになるとは想像できなかったのではないでしょうか。
母の口癖は「何かを決める時はそこにいる一番弱い人の立場に立って考えなさい。」というものでした。母の生き方はまさにそれを実践したものだったと思います。母の遺志を継いで残されたものは頑張っていかなければと心新たに誓います。
改めて母に幸せな人生を実現してくださったすべてのみなさんに感謝を申し上げ、みなさんのご多幸をお祈りし、ご挨拶とさせていただきます。
2020年12月26日
喪主 長女 大山奈々子
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母の柩には、いただいたたくさんのお花と孫たちの写真と、入院中食べたいんやとお隣の奥さんに頼んだキュウリ漬と自らの訃報が載ったしんぶん赤旗と日本共産党の腕章を納めました。
出棺に際しては沿道にご近所の方々が長く並んで見送ってくださり、交差点には党旗を掲げて送ってくださる仲間もいました。
火葬場は母の愛した琵琶湖が見える場所を選びました。
お母さん、もう痛くないし、苦しくないよ、ありがとうね。
コメント
大山奈々子様
ブログを読みながら、涙があふれてきました。謹んでお悔やみ申し上げます。
冒頭の句、無季の句として立派な俳句になっていると思います。切迫感が伝わってきます。心労が重なっていることと存じます。くれぐれもご自愛下さい。
石井様
温かいメッセージをありがとうございます。
この国に関しては先生に尋ねてくださった方があって、
電話冬、という破調の作り方もあり、とうかがいました。
横浜に戻り、いつの間にか新年になっていました。
今年もよろしくお願いいたします。