みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる
高校の国語の時間、この斎藤茂吉の歌を習ったときに痛切感は感じたものの、自分がこの立場になるとは想像できませんでしたね。そもそも京都を離れ、東京に下宿するとか、神奈川で家庭を築くとか想定外でしたし。私の長期的な計画性のなさは昔からですから。娘が、将来の仕事として、AIの発達によっても消滅しない職種を選んだといったのを聞いて、あらー私の子とは思えない、と感心したところ。事実に即していうなら「みちのく」じゃなくて言うならば「あふみ」(近江)ですけどね。
現在84歳の母が、肺の難病になり、5年後の生存確率50%と宣告されたのはもう10年以上前。表情が翳った母に、「いやー、そのころは平均寿命近いわけやし、病気でもなんでも死ぬときは死ぬって。心配してもしかたないやん」と、論理破綻気味に励ましたのでした。
酸素を吸入しながら、暮らしていましたが、このたび肺に水が溜まる事態になり、主治医の先生に「この状態でよう生きてたな」といわれることに。一人暮らしできない水準なのに、ご近所、党の仲間、かかりつけのお医者さん、そして地域包括ケアシステムに携わる方々と、もう、遠くに暮らす娘としては、西に足を向けて眠れない支援の中で暮らさせていただいています。ブログを読んでいただいている方もいらっしゃるのでこの場を借りてお礼を述べます。今回、無事退院という運びになりましたが、一人暮らしできる状況ではないと知りつつ、本人の強い希望もあり、在宅で、また皆さんに甘えさせていただくことになりました。
母はいわゆるしっかりした人です。数字に強かったり、自分が服薬している薬の名前をすべて言えたり、Excelで財政管理できたり、というわけで私は母の医療計画なども母本人に任せきりでした。
このたび反省しきりなのが、母がお世話になっているケアマネさんのお名前も連絡先も知らなかったこと。10年間寄り添ってくださった方に娘としてなんらご挨拶もできていませんでした。今回、地元大津のケアマネさんにバトンタッチしていただきましたが、親の知力体力が永遠であることはあり得ないのに、本当に周りの方々と母本人とに頼りきりだったと反省しました。母は入院中「せん妄」という状態にもなったのか、意味不明のことを電話口で語ることがあり、職場で電話を切ってから茫然としたことがありました。あとで「お母さん、変やったわ。朦朧とした状態を脱したで」と連絡があってほっとしましたが、怖かったですね。いろいろな意味で覚悟がなかった私です。
母の回復を実感したのが大飯原発。ショートメールで「お母さん、大飯原発3号機4号機設置差し止め決まったよ!大阪地裁で設置許可取り消しやって。すごい!」と送ってありました。あとで電話で話題にだすと「一番うれしいニュースや。」とびわ湖を守る会?の会員らしい発言があったこと。母が帰ってきたと思えました。
母の退院が今日。斎藤茂吉の時代とは違って新幹線で汗もかかず向かうところです。今回の車両はコンセントの場所がわかりにくい車両でした。おそらく私同様、探し切れず車両の一番前には足元にコンセントが見えているそこを目指してであろうと思われる、ガラ空きの車両であるにもかかわらず、PCとともに座っておられる方々が各車両にいらっしゃいました。私は車内販売の方に尋ねてひじ掛けの裏という秘密の場所みたいなところを教えていただきました。
コロナの影響はやはり甚大です。家族であっても面会は5分。私の後ろで、家族ではない人がどなたかの面会にきて「一目でもだめですか」とおっしゃっているのがつらかったですね。一時期はアメリカに住む弟家族を呼ぼうかと思いましたが、駆け付けたとして、2週間足止めではね…。そして、母がお世話になっていた病院で働く友人の話では、大幅な看護師の賃金カット案が浮上しているとか。政府に言いたい、真剣に医療現場、介護現場を助けてほしい。そういった職種に従事する方々の責任感や情熱に胡坐をかかず、財政的に支えるべき。最優先にいのちの現場を支援せよ。
コメント
どうして直ぐに一緒に居ないのですか。お母さんはそれを本心から望んでいます。
会えば全てが終わると思っているのですか。
良いじゃないですか。お母さんは本心からそれを望んでいます。 古希
母には母の生活、私には私の生活がそれぞれの土地でありますので、双方が選んだくらしかただったのですよ。