ハチのムサシ
ブログコメント2
わけあって「ハチのムサシは死んだのさ」の動画をご紹介します。
1月13日の記事のコメント欄にこの歌をご紹介した脈絡が明らかになっています。
1972年に紅白歌合戦まで出場した平田隆夫とセルスターズの歌だそうです。そんなこともこのユニットの皆さんの顔も
さっぱり覚えていないけれど、9歳の私が何度も口ずさんだ歌だったことは確か。
ハチが太陽に闘い挑んで死ぬっていうだけの歌詞なんですが、学生運動を示唆しているとか。その時代の空気に私が惹かれたというのは考えすぎか。
「いちご白書をもう一度」もそうですが70年安保の匂いが残る時代でしたね。
と、しんみり終ろうと思いましたが、改めていちご白書を聞くと、
♪雨に破れかけた街角のポスターに~♪の部分を聞いて、映画のポスターではなく、選挙ポスターを思った。
うちが貼ったら必ずその横に2枚3枚と貼り、家主に断りなしに貼ることもある対立候補の選挙ポスターが雨に破れかけていて内心(ざ〇〇ろ)と思ったことを思いだしてしまう自分がいて、私の青春も終わったと思うのであった(;_;)
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コメント
いやいや懐かしいです。「ハチのムサシは死んだのさ」と大山さんのブログで再会できるとは思いませんでした。最後に「いちご白書をもう一度」にも再会出来、大爆笑してしましました。
「ハチのムサシは死んだのさ」1972年ですね、私は11歳。栃木県の小学校4年年から5年生でした。この歌は栃木県でも小学生はみな口ずさんでいましたね。
この年(1972年)は札幌冬季オリンピック(2/3~2/13)が開催されました。笠谷以下「日の丸飛行隊」(名称の是非?はともかく)の70M級ジャンプ(現在の「ノーマルヒル」)で金銀銅独占、またジャネット・リン(女子フィギュアスケート)の尻もち。そして記録的テレビの視聴率となった浅間山荘事件(2/19~2/28)と続いていました。小学生の私でも帰宅後テレビで視聴していましたからね。
これは極めてマイナーな話題で恐縮ですが、浅間山荘事件で赤軍派が使用した銃及び弾薬が栃木県の真岡市(実家から比較的至近距離)の猟銃店から盗難したとかで警察の捜査でその犯人が当時住んでいた栃木県の実家の前の県道を自動車で通ったというのでのどかな農村地帯でも警察が大量に出て来て子ども心にも恐怖心があった記憶が蘇りました。
「ハチのムサシは死んだのさ」当時は学生運動といってもピンとこなかったですが今聴く確かにと学生運動も示唆していますね。
最も「老人と子供のポルカ」(左ト全とひまわりキティーズ:1970年)という曲は、子ども向けソングでありながら「ゲバ(学生運動)」「ジコ(交通事故)」「スト(ストライキ)」の被害者は老人と子供であるという痛切な叫びが込められたメッセージの歌謡だったことが今では定説になっていますから当時の歌謡曲は今よりもメッセージ性は強かったのは確かでしょうね。
さて「いちご白書をもう一度」(1975年:バンバン)名曲です。私のカラオケの十八番(決して人様にはお聞かせは出来ませんが(笑))です。
大山さんは♪雨に破れかけた街角のポスターに~♪の部分を語っていましたが、私は♪僕は無精ひげと 髪を伸ばして 学生集会へも ときどき出かけた 就職が決まって 髪を切ってきたとき もう若くないさと 君に言いわけしたね♪このフレーズに当時を思い出します。
「パンチパーマ」(決して極道傾向へのあこがれは無かった(笑))と「無精ひげ」(常に親戚に反対されていた)にお別れしてリクルートカットにしての就職戦線。
就職が決まって髪を切るのではなく「就職活動」のために髪を切るのが正しいぞとか訳の分からないことを主張していたちょっと屁理屈な自分がそこにいました。
ただ「君」がいなかったのが残念でしたが私の青春の一コマです。
鈴木様
ウケました。「君」がいなかったのかーい!とツッコミたくなりますね。
あのいいわけはこども心にもわかりましたが、確かに就職活動のためですわね。鈴木さんがパンチパーマだったとは!大仏様みたいじゃないですか?
浅間山荘は壁を壊す鉄のボールが印象的なだけで難しかったですね。思想の問題で仲間内で人を殺すのかというあたりまではわかりました。猟銃店が近かったとは!それは怖かったでしょうね…。
「老人と子供のポルカ」はさっぱりわかりません。左卜全は塚原卜伝とは無縁なのでしょうか(笑)
日の丸飛行隊やジャネットリンちゃんのことは懐かしいですね。また、何かの拍子になつかしい投稿を考えます(笑)