水木しげるさんを悼む
ブログコメント4
水木しげるさんの訃報に接し、哀悼の意を表します…
鬼太郎大好きでした。境港も訪ね、水木しげるロードを歩き、記念館でその人生に触れました。家族全員ファンでした。妖怪百科事典も大切にしています。あの世界がもう…昭和への憧憬からか…とても惜しまれます。
三年前に鬼太郎をお弁当にしたものを捧げます。目玉おやじが窮屈そうです。
娘がランドセルを揺らしながら小学校に着いた時にはきんぴらがバラバラになり、なにがなんだかわからなかったそうで、幻の鬼太郎となりました。( ;∀;)
・地元港北では、今年のはじめには地方選を待たず同志が亡くなりました。労働組合で 働く者の権利を守って闘った人でした。かつて県会候補を務めた人でした。仲間を癒し、鼓舞してくれた人でした。
・つい先日も同志が亡くなりました。夫さんがシベリア抑留されたご婦人でした。平和な世の中、人間が大切にされる世の中をめざして活動しつづけた方でした。
そして、南方で戦闘経験のある水木さんの言葉
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水木しげるの見た戦争 |
軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は“猫” 位にしか考えられていないのです。こと“死” に関しては、やはり人間である。“一寸の虫にも五分の魂”という言葉があるが、兵隊全体の暗黙の同意なしにただ命令というだけでは、玉砕は成立しないと僕は思う。
・・・< 中略>・・・
僕は戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。
1991 年8 月 水木しげる
※「総員玉砕せよ!」あとがき より抜粋 |
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生きている者がやらなければいけない仕事があります。
平和は懸命に守らなければ脅かされるものなのだという誰かの言葉が真剣に迫るこのごろです。
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コメント
私も水木しげるさんの訃報に接し心より追悼申し上げます。私(1961年生まれ)は「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」(ゲゲゲ以外は実写版:原作が水木さん)を小学生時代テレビオンエアで熱中した世代です。当時は分かりませんでしたが「ゲゲゲの鬼太郎」等では妖怪も決して人間の敵では無く民話に基づき人間との共存する姿を描いていたと考えます。水木さんは太平洋戦争の激戦地たるラバウルで左腕を失っておりました。このことも当時は知る由もありませんでしたが・・・・・。
「総員玉砕せよ!」等は殆どが。事実に基づくものだといいます。水木さんのラバウルに出征する前年の20歳の頃に書いた手記が今年5月に発見されたそうです。「毎日5万も十万も戦死する時代だ。芸術が何だ。哲学が何だ。今は考える事すら許されない時代だ。」(一部漢字修正)
先日、栃木県の出身高校の京浜地区の同窓会がありシベリア抑留の御経験のある大先輩がご出席されました。この先輩のシベリア抑留時の「ハーモニカ」の物悲しい演奏に接し、司会たる私も胸にこみ上げるものを禁じ得ませんでした。「戦後70年。戦争の悲惨さを忘れることは出来ません。将来二度と若者を戦場へ送ることは絶対避けなければなりません。それが現代に生きる私たちの使命だと考えます。」(大意)その同窓会でも自然とそのような言葉が出ました。
同窓会終了後の二次会で、ある先輩(初めてお会いした先輩)が私に言いました。「貴方の司会は素晴らしかった。特に戦後70年のくだり。あなたは一体どんな方ですか?」私はただ微笑みました。
鈴木さん
それは何者かお伝えするべきでしたね(笑)
何かとチャンスだったかもしれません。
水木しげるさんはなんと30年前くらいに「福島原発の闇」という原発労働者の実態を描く本もものしていらっしゃいました。驚きです。
私のコメント欄に「続く」と入れるべきでしたね(笑)。
実はこの先輩(女性:小学校の校長先生を定年1年前に退職:栃木県在住)とその後、新橋のガード下の焼き鳥屋(この先輩曰く:「ガード下の焼き鳥屋で飲むのが夢だった。」)で再度軽く乾杯。私が何者か。今考えること等話題に熱中し一致点が見出せました。
しかし先輩、相当酔っていました。池袋の先の娘さんの家にたどりつけたか心配していましたが、大丈夫だった様子です。
私は大丈夫でした。(笑)
鈴木さん
それはよかったですね!