大山奈々子
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神奈川文化賞・スポーツ賞 羽賀龍之介君に会いに。

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この賞は、戦後間もない1951年、神奈川新聞社の主筆川崎萬博さんが県教育長を訪ねて、郷土神奈川の再建と文化水準の向上のために、表彰事業を提案されたのだそうです。

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当時の知事の内山岩太郎さんが快諾、神奈川新聞社と県との共同事業として取り組まれてきました。そのような思いのこもった賞の贈呈式のご招待をいただき、今日も討論原稿の手直しが必要で県庁に行っていたので徒歩8分の県民ホールにいってみることにしました。

受賞者のお名前に、私の好きな元オフコースの小田和正さんや、体操の白井健三君、彼が岸根高校生の時、私が新横浜駅の篠原口で駅頭宣伝しているとよくイヤホンして前を通り過ぎるのを見ました。彼が18歳選挙権のイメージキャラクターになったと知った時は、「よく、駅でノボリたてて宣伝していた共産党にいれようかな」とか思ってくれてたらいいな(甘っ)とか、いやそもそも投票にいったかしら、とか心が騒いだものでした。

で、本当に会いたかったのは、柔道の羽賀くん。羽賀君のお父さんも柔道が強かった。私の幼馴染です。(40年も会っていませんが)18歳まで住んでいた京都市右京区新田町で屋根繋がりの市営住宅の彼の家と私の家が両端でした。一緒に遊んだのは小学生まででしたが、穏やかなやさしい子だったな。羽賀君のお父さんには桂川で釣った鯉をよくいただいて母が姿揚げにしてくれたなあとか。

私たち一家が滋賀県に引っ越してからも亡き父が、羽賀君の柔道の戦績を新聞で見てはよくうれしそうに語っていたな。のちに息子さんも柔道やってるらしいと言っていたな。羽賀龍之介君の経歴をよむと港北区のお隣の区の中学に通っていたらしいです。

父は、私が県議になって、その県庁の近くで父が応援していた羽賀君の息子さんの授賞式に出させてもらうなんてこと、京都から遠く離れているのに想像もしないよね。などと、おもいながら歩いていました。

楽屋でお父さんによろしくとかいえないかと、思って聞いてみると羽賀君は式には出席できなかった様子。残念。小田和正さんも、白井健三君も。でもビデオレターでご挨拶されたり映像で紹介されたり工夫がありました。

インタビューに応えた受賞者の方々のお話はおもしろく、日本が核廃絶の会議の開始に反対したことを挙げてこの国はどこに行くのかと話された方がいたり、

ニューヨークで個展の準備で来られないため、ビデオレターで語った美術家の方は、インスタレーション作家ですが、海の見える開放的な鎌倉高校に通ったことが作品にも影響を与えているとか、「大船フラワーセンター」という作品を作った、あの植物園がインスピレーションを与えてくれた、とか、語っておられました。文化を育むものの多様性を感じさせてくれました。

そのフラワーセンタ=指定管理になってさっそく温室がなくされようとしていますよ、私たちはフラワーセンターの愛好家の皆さんの思いを受けて、県直営を求め、温室をなくすなとがんばっていますよ。とビデオに心の中で語り掛けました。

神奈川の大船フラワーセンター並みに大きな植物園は、広域自治体では京都なのだと元環境農政委員だった木佐木県議に教えてもらいました。京都はとっくに指定管理になってしまっているとか。私が小さいころ「おちゅぶちゅえん」と呼んで好きだったあの場所のことを神奈川で聞けるとは。

式の後半は神奈川フィルハーモニー管弦楽団の祝賀演奏。かなフィルは解雇の問題があって、理事が…とか、県の姿勢は…とかこれまたいろいろ別なことを考えながら聴くことになりました。

それやこれやでノスタルジックな文化の日でした。

 


コメント

  1. 中村 孝より

     思い出の芳賀さんには会えなくて残念でした。
    フラワーセンターの行く末、気がかりですね。

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