連帯
8日
OPツアー
ホテル→ひめゆりの塔・平和祈念資料館→糸数アブチラガマ→平和の礎→不屈館→沖縄→東京
→私たちはここから沖縄県庁で沖縄県議団と懇談
晴天に恵まれ、ため息がでるほどきれいな海に出会えました。
ひめゆり記念館では、自分の認識が足りなかったことを痛感。当時のひめゆりたちのように、赤十字の旗の元、病院の建物で救護活動をしたと思っていました。
陽の挿さないガマで、傷病兵の看護を懸命に続け、鉄砲水に足を滑らせ、担いでいた糞便の桶を頭からかぶる…。麻酔なしで行った手術で切り取った腕や足を外に捨てに行く…。外に出れば敵の砲撃で命を奪われ…。
投降したら男は八つ裂き、女は強姦されると教え込まれ、決して降伏する選択をもたず、命を散らせなければならなかった…。(日本軍がアジアでやってきたことを教えたのではないかというコメントがありました。)洗脳の怖さ。
糸数アブチラガマでは、脳を冒され、致命傷を負い、日本軍に捨てられた百数十の兵士。身動きできず、水すら飲めず亡くなった遺体の中には胸のところに飯盒のふたや靴が置いてあるものが多かったとか。鍾乳洞からまれにしたたる水をためて飲もうとしていたのだそうです。
私がこの南部戦跡の旅で改めて怒りを覚えたのが、近衛文麿の上奏文の日付を再認識したこと。1945年。敗戦必至だから降伏をと天皇に上奏したのは2月のことだった。
この時、降伏を決めていれば、東京大空襲もヒロシマもナガサキもなかった。為政者がやすやすと国民を悲劇に導いたこと。改めて同じ轍を踏んではならないと思いました。
それなのに今の日本!
これは沖縄県議団の会議室入口。沖縄県議会は、米軍統治下のなごりで、アメリカ型民主主義の精神から議員に個室があります。国会のように。秘書もついていたそうですがこちらは本土返還とともになくなりましたが、部屋は守ったと嘉陽議員。沖縄県議団は6月の改選で6議席に増。
懇談の写真を入手していないので、沖縄県議団のHPから拝借と思ったら、昨年初登庁の私たちと同じことをやっている。感動!基地県の連帯を感じます。
右から玉城武光議員、比嘉瑞己議員、西銘純恵議員、嘉陽宗儀議員、渡久地修議員。
左端は瀬長美佐雄議員。おじいさんはあの瀬長亀次郎さんです。(政治家。一貫した大衆左翼運動家。第2次世界大戦後 1947年沖縄人民党を結成し書記長となった。 1952年初の琉球立法院選挙で当選,米軍宣誓を拒否。弾圧され入獄。 1956年那覇市長に当選したが,1年後追放される。 )
沖縄ではいまもって保守革新問わずカメジローファンが多く、「不屈館」をじっくりみたかったのですが、懇談の時間のために切り上げざるを得ませんでした。
タクシーの運転手さんが、「カメジローがいたから沖縄がよくなったのはたしかさ」とおっしゃってました。
(カメジロー語録は必見です。)瀬長さんは、「亀次郎の孫を落とせない」と多くの方が応援してくれたとおっしゃっていました。
沖縄県の共産党は社民党、社大党等とともに翁長知事を支える与党です。でも自民党員だった知事と新基地を作らせないことでは共闘できても、知事は日米安保を認める立場なので、なかなかむずかしさもあると。
ただ、非常に面白かった話は、「かつて自民党県連幹事長だった翁長氏は辺野古移設容認だったのになぜ反対か」と議会で自民党から追及された翁長氏は、「勉強して変わった」と答えたとか。小林節氏が共産党の認識に関して、人は変わるものだと言ったことと似ているなぁ。
日本政府の沖縄の民意を無視した仕打ちに対し、沖縄独立論が聞かれることもあるけれども、沖縄の人たちは祖国復帰を願った背景には日本国憲法のもとに帰りたいのだという思いがあったんだということを聞きました。
憲法の息づく祖国にしなければならない。
県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦。苦しさ辛さを糧に闘い続ける沖縄。沖縄の暮らしを守る闘いはまさに日本の主権を守る闘いで、今回「支援」という視点ではなく連帯のツアーというべきだった。とは参加者が思ったことでした。
民意に応え、県内で保革を越えた共闘の手がひろがり、海外からの支援も集め、平和を築く大きな闘いの推進力となっている自信があふれる沖縄県議団でした。
高江の機動隊が敵なのではなく、おおもとの安倍政権を倒さなければならない。そのための衆議院選挙の用意はできている。という話に身が引き締まる思いでした。