大山奈々子
大山奈々子大山奈々子

長崎の町も歩きました。

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原水禁世界大会に参加した方々から、多少は長崎の町を観光して回れることもある、とうかがっていました。今回私たちは、初日、一番遅く着く便で、一番遅く出発する便だったので、時間を工夫して回りました。

女性のつどいの後、海外代表のみなさんと一枚。

分科会と女性のつどいの間に原爆資料館。

グラバー亭は三日目の朝早く閉会式前に。雨に煙る景色の中、8時には開門していました。グラバーさんが武器商人であり、薩摩藩士の留学を手助けした人であることのほかに、私の好きなキリンビールの前身を作った方だということを知りました。

また、グラバー氏が秘密結社フリーメーソンの会員説の根拠となった石碑の案内もあったりして、のちの研究で縁がないとわかったといわれているようですが、なかなかに想像を掻き立てるグラバー邸でした。

平和公園もそうでしたが、このグラバー邸にもエスカレーターが設置されていて、足の悪い方や車いすの方などへの配慮を感じました。

大浦天主堂は、外からみただけでした。原爆で破壊された浦上天主堂はもっと西にあり、マリア様は黒く焼けましたが、こちらもステンドグラスなど被害があったそうです。

のちにガイドブックを読むと、日本で1600年ころ豊臣秀吉によってキリシタン弾圧の命が下され、最初に殉教した26聖人にささげられた教会だと。大坂・京都あたりで捕縛した26聖人を長崎まで連れてきて処刑したのは、見せしめだったと言われています。

秀吉がポルトガル貿易のために長崎にだけ居住を許し、住民の信仰の自由を黙認していた町だったからこそ、長崎に住む人々への警告であったということです。

夫がそういえば、長崎を訪れた後、遠藤周作の「沈黙」を読んでいく前に読むべきだったと言っていたことを思い出しました。

こんな碑もあったりします。ボーリング発祥の地の碑もありました。

さすがに外来文化が一早く入ってきたまち。

閉会式は7千人。本当に熱い、大会でした。

少年少女の代表の一人が「私たちは核兵器のない世界を実現します!」と断言していました。中学生くらいかな。

冒頭、背中の赤い少年で有名なヒバクシャの谷口稜暉(すみてる)さんが、「ヒバクシャが一人もいなくなったらと考えると怖い」と語っておられる映像が流れました。でも、この彼女の凛とした宣言をお聞かせしたかったです。廃絶するまでがんばります、という大人から一歩進んで、実現します!と断言する少女の頼もしさ。素晴らしかったです。

この同時期に広島や長崎の追悼式典で核兵器禁止条約のことを触れない安倍首相はこの場にくるべきだった…

閉会のあと、出発まで、出島に行ってみました。港北の新婦人から参加されたkさんとともに。昔から教科書で習った出島は実にコンパクトで、(1周1キロ??)今や島の体をなしていませんが、ミニチュアが展示されていたり、当時の建物がそのまま復元されていたり、いろいろな動物がいたこと、暮らしぶりなど興味深く見ました。下はミニチュアです。

日本人は遊女だけが立ち入りを認めれていて、そこには悲恋もあったと…

長崎の町は主要な道路にはこのエスコートゾーン(点状のブロック)が設けられ、視覚障害の方も安心して横断歩道を渡れるようになっていました。一方で、ここに信号ないの?と思う場所もありましたが。

神奈川は視覚障がい者の施設のそばに少しあるのみでエスコートゾーンの設置を急がねばと思いました。

最後は平和公園。あの式典が終わった後でした。

爆心地で、刑務所の支所があったところで、受刑者看守ら合わせて135名はひとたまりもなくなくなったということでした。

平和公園を歩くと、中国や韓国、ヨーロッパの国々から寄贈された慰霊の塔がそこここにあります。核兵器廃絶は日本の課題であるだけではなく、世界の人類の責務だということを再認識しました。

今回は大会参加が主目的ですから、おちついて食事を味わう暇がなかったのが残念でしたが、いつの日か日本政府が条約を批准したら、報告に来たいと思いました。

 


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