フクシマを忘れない 生業訴訟 福島地裁判決
故郷を返せ生業を返せと闘われている生業訴訟。
衆院選の公示日が生業裁判の判決の日10月10日でした。選挙が終わって遅まきながら判決を読みました。「津波を予見できたのに対策を怠った」と、国と東電の法的責任を認定し、原告2900人に総額5億円を支払うよう命じるものです。
こちらに訴訟を追っている堀潤さんのルポをご紹介します。
原告団弁護団のHPはこちら
判決の要旨や見解を読むことができます。
それにしてもわが身を振り返れば、このところ福島と離れていました…
私たちは事故後、港北区で有志を募り、石巻や南相馬に被災地支援を重ねてきました。しかし、私自身が議員になり、時間の制約ができたことと、南相馬でボランティアセンター長を務められた宮前さんが亡くなったこと、など理由はあるものの、二年近く福島に行けていないのではないでしょうか。
私たちを忘れないでとおっしゃった被災者の方々に長らく会えていないことを改めて反省しました。
2012年、仮設住宅で青空バザー。住んでいた集落がばらばらになって新しい仮設で話す人もなかったけれど、このバザーで同世代と知り合えたと、メールアドレスを交換しているママ達がいました。
・故郷が壊れるとはこのことかと。元の所に住めないだけではなくそれまでのつながりが断たれていく…
・夫が津波に呑まれて遺体は海辺に上がっていたけれど原発事故で汚染された地域だからとずっと入れなかった。立ち入りできるようになって見つかったお父さんは半分水につかったままで脚が黒くなっていた…どんなにか冷たかっただろう…
・この仮設は2年で4回目の住まい。避難に疲れた…
・避難先で孫がいじめられた
・初期の頃からみなさんの困りごとは、長期に渡る避難生活と先の見えない不安に変わっていく…
東電で働く家族がいる。東電の正社員家族と4次下請けの人、労働者の派遣会社経営の人もいる。
聞き取った悲劇の数は性質はちがってもこの事故の罪深さをまざあざと物語っていた。
遠ざかったいまになって思い出す老婦人の言葉。
「歌手や芸能人が来てくれてね。そんなことが嬉しいかと言われるかもしれないけれど、私たちは忘れないでいてくれることが本当にうれしいの」
(自民党の政策リーフより)
港北区内の生活相談でお世話になっている馬奈木弁護士が福島原発訴訟の弁護団事務局長だということもあって、九州の玄海原発の弁護団の先生たちと一緒に現地視察に参加させていただいたことがあります。原告団長の中島さんにも何度かお話をうかがいました。シイタケ農家さんや漁港の人にもお話を聞きました。模擬裁判では有機栽培の農家でお父さんが事故後に自殺された方の声も聞きました。
当初はそう、原告団は800人でしたが膨らんでいきました。馬奈木先生に各地区ごとに区分けした原告の地域別に名がついたグループ一覧を見せてもらったことがありました。
所属の人が少ないグループは[その他]とまとめられていて、「なんか[その他]っていうグループ名はさびしくないですか?」というと、「さびしいでしょ?だから仲間をあつめるんですよ」とにやりと笑う馬奈木先生の策士ぶりに感心したことを覚えています。
福島に手弁当で通う弁護団のみなさん。生きていく努力を重ねながら裁判を闘っている原告団のみなさん。勝訴おめでとうございます。
今回国と東電が断罪されても、実際に判決を生かし、損害賠償させ、再稼働を認めない、原発ゼロへの闘いはつづくでしょう。何億の賠償金がでても原発の事故は取り返しがつかない被害をあたえるのですから。
放射能汚染は続いているのに強引に避難解除をして避難者を帰還させ、補償を打ち切っているのに、福島で第一声をあげているしらじらしい首相を紹介する写真です。