娘と京都、母と大津、義母と金沢の夏
お兄ちゃんはリュックをしょってインドへ行ってしまった。
パパはおばあちゃんをともなってそのふるさと金沢へゆく。合流をめざして娘と私は大津に住む私の母に会いに行くことに。
娘たちとは京都を何カ所かめぐってきたけれども、嵐山を知らないという。「ママの高校の校区にあるんだよ。ついでに母校も見る?」「見る見る!」というノリで、企画。
初日
毎度ながら宿だけ決めた場当たり旅行。
出版社に勤める友人の紹介で、かつて高校教師をしながら「京都おんなひとり旅」という紀行文を書いて本をだしたことがあります。絶版ですが、アマゾンで売られていた情報もあり。というわけで、灯台下暗しでもなく、まあまあ京都の寺院は回っています。
京都駅近くの三十三間堂は歩いて行けるよと、炎天下18分歩きました。蒸し暑い京都の夏はいまや横浜も変わらず。ただ、夕方以降も熱が抜けない感じは京都かなと。
三十三間堂の1001体の仏像は実はいろいろな所へ出品されていて今はひさしぶりに全員そろっているのだとか。
そしたら、次には隣にある京都国立博物館に行こうと。ここの新旧両方の建物にいたく感心していた娘。私もここ、入ったことがなかったかもしれません。美術作品の中の「赤」色が持つ意味など特集されていました。娘は仏像が照らされてできている影を写真に撮りたいと思うのですが、ご多聞に漏れず撮影禁止。海外ではそんなに固いことはいわれないのですが。理由は観覧者の邪魔になるからと聴きました。フラッシュたいた時代とは違ってスマホでパシャッと撮るくらい許してほしいなー。
嵯峨嵐山駅前のホテルは、行政の研修センターと合築。官民連携。
2日目
嵐山着の保津川下りをめざすも、強風中止(´;ω;`)ウゥゥ
トロッコ列車は場当たりでは乗れず。「ママが教育実習に来たとき嵯峨嵐山駅を寝過ごして気づいたら『保津峡』でびっくりしたんだよねー。周りが緑過ぎて。」
「…若い時からママはママだったんだね」どういう意味?
保津川の下流は桂川。西京極の市営住宅に住んでいた私、
「ちっちゃい時はじいじと桂川で泳いでたんだよ。浮き袋に入って。」と父を懐かしむ。
川下りができなくなった以上、機動性を重視し、レンタサイクルで回ることに。私が旅でよくやる手段です。
天龍寺は借景が見事。
渡月橋。台風が近づいている感。
猿をみたいというので、私も噂には聞いていた猿山、すぐ近くの岩田山へ。
20分も山をのぼり、ヘタレな娘は1合目あたりでネをあげていたが、励ましつつ到着。野生の猿を餌付けしてモンキーセンターとなっています。猿によってピーナツの薄皮を剥く猿と剥かない猿がいることを知る。神奈川では鳥獣被害ということで駆除の対象になっていることを思う。駆除する仕事を担当する職員さんの苦悩を聞いたことを思いだす。
竹林の小径 途中の野宮神社は後輩のおうちが宮司さん。バンビのようだった彼女元気かな…
母校です。なんと40年前もカエルがよく出る田園風景でしたが、今なお田園がひろがっているではありませんか!すぐそばの大覚寺で60年近く営業されているというおうどん屋さんに聞くと「京都市が周りを買い上げて貸したはるから簡単に開発できひんのよ」とのこと。なんかほっとする。
北嵯峨高校近辺で一人旅の大学生に会う。パリの学生さん。障がい児を支援する多国籍の学生たちのイベントがあったとか、日本の風景のすばらしさ、日本人の礼儀正しさ穏やかさをほめてくれる。双方の学生の姿勢や日本の管理教育のことなどなかなか話題がひろがりました。
私たちはパリ大好き親子なので根掘り葉掘り聞きたかったけれど掘るべき語学力がなくまあまあにとどまりました。もっと時間があったらPrime Minister Abeについての見解をぜひ聞きたかったですね。
犬神家の一族の撮影があったといわれている広沢の池。近くに太秦映画村がありますからね。
嵯峨嵐山から東に行って龍安寺の石庭を見る。
近くの壁に、このポスターがありました。「応仁の乱以来のまちこわし!」共産党京都市議団も府議団も一緒になって早くから民泊対策は打ってこられたこと、以前懇談した際に聞いていました。住民のシンポジウムや啓発の冊子づくりなど、議員の層が厚いと素早い動きができるものだと感心しましたが、それでも破壊には絶えず目をひからせなければならないわけです。
このあと、なじみの古着屋へ。
古着屋の近くに新しいドーナツ屋さんが誕生し、ストローは紙製、トイレは All Gender。(性別フリー)と新しい施設ならではの工夫がありました。
3日目
京都国際まんがミュージアム。放火された京都アニメーションに対する募金も取り組まれていました。壁一面に著名な漫画家のみなさんが描きにおとずれたというさまざまな漫画が描かれており、明日のジョーから武宮恵子、ルパン…宇治金時は史上最高でした。
歴史ある小学校をリノベーションしたミュージアムは何か国語もの漫画があり、世界中から人が訪れていました。そこここで漫画を楽しむ人が座って読み込んでいます。初めて訪れましたが、リピートしたくなりますね。ミュージアムの中に地域の人が体操したり会議したりする公のスペースがあるのもユニークでした。
午後は、大津へ。
疲れるからと京都同行を断られた母と琵琶湖畔の旅館でひたすらのんびり。
手の込んだおいしい食事をいただきました。食の仕事に就きたい娘は食経験を増やすことを課題として与えられており、そのニーズにこたえるものとなりました。
4日目
母と別れて金沢へ。大津から金沢は遠かった。半日がかりでした。
金沢駅は周辺にホテルが林立し、活況を呈していました。十年以上ぶりに伯父に会い、話好きな伯父と仕事のことなど話しました。
5日目
私は午後から団会議があり、朝のうちに金沢を出発。初めての北陸新幹線。富山や長野を通ることを知りました。シックな外装内装、席ごとに点字でおそらく席番がついているここもまた時代の進化を感じました。金沢から横浜も半日がかりでした。楽しかった!(^^)!
コメント
北嵯峨高校って1980年代半ばから90年代にかけて野球部が強かったような。それ以前は京都府は京都商業が強かったけど、京都商業と入れ替わるように北嵯峨高校が台頭してきたという印象があるなぁ。
ところで、私が高校生の時、京都商業野球部には在日韓国人の選手が4人いて、そのうち2人は韓国名で登録されていた。その時、京都商業は夏の甲子園の決勝まで行く。今のようにヘイトスピーチが公然と行われている時代ではなく、いろいろな意味で本当によかったと思う。
なめねこさん
そうなんです、北嵯峨は公立校の割には野球部強かったです。学校全体が文武両道とか掲げていて帰宅時間もけっこうきびしくきまっていました。効率のいい練習方法だったかのかなと思います。
京商!懐かしい。私たちの回りには在日の子がたくさんいました。母は朝鮮人部落と言われていた地域のお母さんからビビンパを教えてもらっていたものでした。差別もありましたが、加害の歴史をきちんとみんなわかってもいた時代だったかなと思います。
というか、なめねこさん、京都の方でしたか!
おかんが京都出身です。おかんの方の従兄弟の一人が京都商業でサッカーしてました。私と同じ学年で京都商業野球部の情報も彼からいろいろ教えてもらいました。1981年夏の甲子園決勝は一緒に観戦しに行きました。
私は埼玉出身です。父が埼玉出身で父の実家で生まれ育ちました。近年、埼玉では共産党が盛り返しています。21年ぶりの議席獲得はその証の一つだと思います。
なめねこさん
京商!懐かしい。おかんさまによろしく。
埼玉最近すごいですよね。
県政でみくらべると、神奈川と同じくらい、遅れてるなーとおもうことが多いのですが、そちらも変わっていくのかしらね。