「Fukushima50」と「太陽の蓋」
東日本大震災から9年後の3.11を、未曽有の感染症禍の下で迎えることになろうとは、そして、復興五輪と銘打ったけれども、原発の被災地では復興が遅々として進まないなかでの五輪を目前にした状況の中で迎えることになろうとは。私は、娘と前者を観に行きました。この中では菅元首相が揶揄的に描かれていて、ご本人がTwitterでそのことを受け入れつつ、もう一作の紹介をされたのがタイトルの二作品です。
Fukushima50は、米軍や元首相の描き方が一面的で、いやに明るい終わり方なども気になりますが、ドキュメンタリーとしての意義を感じました。久しぶりにパンフレットを買いました。現地で対応に当たった人たちの、現場の再現が実にリアルだ、吉田所長が生き写しだ、とコメントされていました。フクイチで、東電の社員がどういう気持ちで仕事をしていたか。故郷にどういう思いを持ったか。「住めない街にしてしまいました」という述懐が重く響きました。美談風だという批判的な意見もある映画ですが、私は何かと考えさせられました。娘は最初から最後まで泣いていました。
2011年の震災後、県議候補だった私は今より時間の自由が効いて、港北区の仲間とともに、石巻や南相馬に何度か足を運びました。浪江も小高も飯館も目に焼き付いています。
立地の時から地元は反対賛成に分かれ、反対派が札束で切り崩されていった生々しい話。
仮設住宅に住んでいる方の多くが東電関係者で5次下請けをやっているが危険手当なんかないという人
東電正社員の息子が爆発後、すぐに石川方面に逃げろと電話してきたという話(そういえばあとで放射能拡散図スピーディーをみたら、そちら方面には雲はなく…)
とうちゃんは原発で働いている。子どもたちはガラスバッチ(放射能検知器)つけてるけど「父ちゃんは放射能なんて全然大丈夫だって言ってたよね」と笑っていたママ
町中で見たおなかの大きな妊婦さん…
「あんたら原発なくせっていうけどさ、このあたりには原発しか産業ないんだよっ」
遺体が浪江に流れ着いたけれど放射能汚染で立ち入れず見つかった時は腰から下が…
歌手なんか来てくれてうれしいのかって思うかもしれないけれどね、見捨てないでいてくれるというのがまずうれしいんだ。と笑うお年寄り
何より福島の復興をみるまで、場合によっては福島に骨をうずめようと決意して移住した日本共産党被災地支援センターの宮前さんの笑顔
(残念ながらボランティア隊を受け入れて案内してくださる過酷な任務がたたってか、発病して亡くなりました)苦難軽減に奮闘する党の精神を具現化した人でした。
フクシマを忘れることはないけれど、意識から遠くなっていたことを深く反省した日でした。