大山奈々子
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第39回神奈川県学童保育研究集会で学童に憧れる♡

ブログコメント2

県議団では何人かが超党派の学童保育議員連盟に入っています。私もその一人。学童議連会長(自民)と、県の次世代育成課の方とともに来賓として招いていただきました。

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私は子どもを産んでからは、子どもたちと一緒にいたくて専業主婦をしていたので、学童は利用しませんでした。

しかし、周りの働く親たちが学童を頼りにしている姿や、うちの近所のやんちゃ坊主が学童を脱出して逃げているのを、これまた私の友人が指導員として探しに来たりしているのをみていたり、また、別な学童に私の友人がこれまた指導員をしているところに核廃絶の署名をおいてもらったり、教育関係のいろいろな署名を学童にお願いしに行ったりというおつきあいでした。子どもたちが異年齢で集まって楽しそうに過ごしている様子がなんとなく羨ましいという思いでした。

川崎育ちの友人が「小学校の時は、学校が終わったら児童館に行っていろんなことやって遊んだのに、横浜には児童館がないんだよね」と言っていました。

また、FB仲間の記事の中に、学童OBたちが実に楽しくキャンプや飲み会をやっている様子をみて、すごい絆だなと思っていました。

 

6日のこの会に出させていただいて、本当に、放課後の子どもにとって学童って宝物のような存在なのだと思い知りました。そう思う人が多いからこそ、会場の体育館一杯に保護者や指導員(おっと、今後は支援員というのでした)のみなさんが詰めかけていたのでしょう。

学童連絡協議会の会長のお話では、「運動で国の予算が増えたり、基準も改善された、けれどそれも大事だけれど何より、学童の保護者や指導員のつながりこそが大事なのだ」という言葉が印象的でした。この方も保護者として、保護者会で指導員の方からわが子や他の子たちの様子を喜々として聞いたものだとおっしゃっていました。

そして、写真の渡辺恵津子先生は、小学校教師として1年生から6年生まで5巡したとおっしゃる方。今は大東文化大学で教育学を教えている方。記念講演です。数多くの子どもとのエピソードを交えながら、学童の保護者としての経験を豊かに語ってくださいました。

「不登校の子が学校に行けないけれど朝から学童に直行し、学童での安心な時間を経てそのうちに学校に行けるようになった。」

「両親が離婚して、育児放棄の気配があった子に気づき、指導員さんがおやつのメニューをごはん的なものに切り替えて、帰りに残りのごはんでこっそりおにぎりを二つ作ってもたせてくれていた」

「小学校で尊敬する人を挙げてもらったら『しんちゃん』と答える子が多く、それは学童の指導員さんだった。」

「東日本大震災の時に、先生たちが動揺したのか学校から帰らされた子たちが、学童に行けて、親が交通が寸断されて帰れなくなっても指導員さんたちとともに一夜をすごすことができた」

などなど、親代わりに親より豊かに子育ての貴重な場となっている学童の姿、子育てしながら親が育つ話、子どもを通じて社会参加していく話を語ってくださいました。

小学生のエピソードで、親の再婚で複雑な環境にあった子が学校で「先生、これ(何か課題)できたら〇〇してくれる?と言ったんです。なんだと思いますか。おんぶなんですよ。」という話は涙がでました。おんぶ。忙しさの中で、子どもが親のぬくもりに飢えている…。うちの近所でも放課後の居場所がなくて公園でゲームしている子、コンビニで過ごしている子がいました。親になれなくても、代わって目を見つめて話し相手になってくれる、学童を守り育て、十分な場所を確保し、学童の支援員さんたちにさらに誇りを持って働いてもらえる待遇改善も必要だと感じました。

 

2014年4月の厚生労働省令により、「放課後児童クラブの設備及び運営に関する基準」として学童保育史上初めて国が定めた基準が示され、これを受けて市町村が最低基準を定める条例を策定しています。

いただいた資料には「予算も増額され、補助基準額の1.5倍(20~35人のクラブ)となり、さらに(山間部、へき地などと限定があるものの)今まで補助金のなかった10名未満のクラブにも指導員複数配置のために予算がつくことになりました。それでも指導員の待遇はいまだに不十分で年収150万円以下である場合も多く、そのため3年間で約半数が入れ替わるのが現状です。」とありました。

学童議員連盟との懇談の時にも、月に15000円の利用料では預けられない世帯もあるという話、支援員の研修に時間がかかり、その間の代替指導員がいないので困る話なども聞いています。学童議員連盟は超党派です。

この日も議連会長が「最近、保育園落ちた、(大山注;日本死ね。と続きます)という辛辣なツイートがネット上で話題になっています。これは保育園だけの問題ではないとおもっております。私たちもしっかり取り組んでまいります」という趣旨の挨拶をされていて、本当だよと思った次第です。


コメント

  1. 鈴木やすより

    「学童保育」懐かしい響きです。27歳の娘がお世話になりましたから最早20年位前のことです。懐かしさとちょっぴり切なさを感じます。
    私は当時、学童保育の役員として会計と指導員の給与計算を行っておりました。保育園は園にまかせっきりでしたが「学童保育」は保護者が主体で正直当初驚きました。かみさんは「学童保育」に関わらず?専ら私(父)がかかわりました。
    今思い出すのは夏の「キャンプ」や保護者のいわゆる懇親会(飲み会)が思い出されます。確かに「署名活動」も秋の定例行事だったようか気がします。因みに最後の夏のキャンプは娘が塾のため不参加で私(父)だけ参加(会計で現金預かっていた関係上参加必須だったので)というイレギュラーの事態となったのも今や笑い話です。
    苦労したのは保育料の徴収でした。確か当時で月額15000円位でした。家賃が高くこれでもぎりぎりで毎回保育料の値上げ問題も課題だったのも思い出しました。
    利用料の徴収は期限までになかなか納付して貰えず家賃等の支払いに窮したのを思い出しました。当然、私は勤務していましたが会社の休憩時間を利用して横浜市からの委託料(確か少額ながら有りました。)の入金を待って支払いの口座へ現金を移動したり等結構やっていましたね。当時は今ほど「貧困」も問題視されていませんでしたがシングルマザーの方等複数おりお互い気を遣い徴収は大変だったです。
    それからこれはちょっぴり切ない話ですが、当時の指導員(男性:未婚)は通常非常にまじめな方だったのですが、ある日、その指導員が飲酒していた感じで深夜自宅に電話(当時はまだ携帯電話やメールが一般化していませんでした)があり「私の給与が安い。何とかして欲しい。こんな安い給与では結婚も出来ない。またローンを申し込んだが拒否された。私は1人前ではないのか?どうしたら良いのか?」(大意)と言われました。
    私はただ聞いたことを保護者(父母)会長に報告し保護者(父母)会長が「彼は酒乱だから!」の一言で終わりました。今思うと何も対応出来なかった己の非力さを感じるばかりです。
    あれから約20年経過しました。指導員の労働条件は良くなったのでしょうか?当時の指導員の給与は私の記憶ならば月額14万円位。賞与は無くその他手当含めても年収200万円には届かなかった位だとの記憶があります。
    その後、娘も高学年になり塾や習い事で「学童保育」を辞めましたが「学童保育」と聞き当時のちょっぴり切ない出来事が今回の大山さんのブログに接し思い出されました。ただ当時も子どもが元気だったのは救いでした。

    • 大山奈々子より

      なるほど、学号保護者の実態がよくわかります。財政的な管理も保護者にゆだねられているんですね…。今と変わっている面もあるんでしょうが、待遇は依然として改善は遅々としています。
      ローンが組めないという声は他の業種においても想定されますね。
      子どもの暖かな居場所を築いてくださるみなさんの待遇を少しでも改善し、学童保育の場所を確保し利用しやすい学童になるよう私たちも頑張りたいと思います。

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